宝塚月組「エリザベート」


ミュージカル「エリザベート」は宝塚歌劇としては、過去の経緯から
やりやすいという感覚があるのか、各組で公演してきた。

所が今回の月組の公演は、少々形が違った。
それは、タイトルロールのエリザベートを演じる娘役がいないことから
宙組の入団六年目の男役・凪七瑠海をこの役に当てたことだ。
過去、通例としても、自分の組の娘役でやるから、それなりに
その組の色が出て見るほうも、興味が湧く。

所が演出の小池修一郎は、月組にエリザベート役を演じる生徒が
いないとして、他の組からオーディションして凪七を選んだ。

聞くところによると、高音が出るからということらしい。
しかし、凪七は新人公演の主役を演じたこともない生徒だ。
しかも、他の組に出るということは、宝塚歌劇では、大変なことだ。

何が大変か?それは会社の中の異動と違う?どこが違う?
まず、よほどのことがない限り、他の組とは交流がないから
いきなりいくと、顔と芸名を覚えなくていけない、それから本名も
更には独特の生徒の愛称も覚えなくてはいけない。

この人数が80人だ。
時々、組替えというのがあるが、一般社会の異動だが、組替えさせられる
生徒は日常生活全てが変わるので大変と聞いたことがある。

その上で他の組のトップと組んで相手役をするのだからその大変さは
想像を超えるものがあるだろう?

演出の小池はプログラムに
月組トップスターの瀬奈じゅんは、花組で代役の稽古でトートを演じている。
しかし、もしその当時演じたとしてもこうは出来まい、と明言できる
会心の演技である。
歌、ダンス、演技何れも完成の域に達し、トート閣下も黄泉の国で
さぞや満足していることだろう。

対するエリザベートに凪七瑠海。宙組の中堅男役だが、オーディションの
結果「大いなる賭け」に打って出ることになった。
本当の答えが出せるのは幕が開いて数日経ってからだと思うが、
本人の人生に二度とないであろうプレッシャーが、エリザベートの
孤独やあくなき闘いに投影されることを祈っている。
と書いている。

本筋からいえば、組子で配役が出来なければその作品は取り上げるべきでない。
今五組ある宝塚歌劇の、面白さは組ごとの色の違いがあるからこそ
そこに興味を観客は持つ。しかし年々それが組子の異動で、薄れ始めて
組の色がなくなりつつある今、今回のような他の組から人材派遣を
求めるようになると、組の存在が意味なくなるのではないだろうか?

エリザベートは過去、歌える一路真輝で始まり、
本人曰く、何で歌が下手といわれる私がするのといった、麻路さきがトートを演じて、
演技者としても好評を得たところからはじまっている。

黄泉の国、死神のトートには冷酷さと共に何かしら愛情を感じさせる
物がないといけない。
似ているのは、オペラ座の怪人だ。

瀬奈のトートにはそれが感じられない。
感じられない舞台ということは、演出にも責任がある。
冒頭、エリザベートが、綱渡りして落下、そこから死に神トートと出会うが、
今回は舞台上処理が、もう一つよくない。

良くないということは、その出会いで死に神トートはエリザベートに
魅せられないといけないからだ。

大切なのは、トートがどこでエリザベートに魅せられるかなのだ。
それが明確に演じられ観客に伝えらないと、最後にエリザベートが
トートに身を捧げて天空へといく道行にならない。

瀬奈トートはひたすら自分の感じでトートを演じて、死に神トートを忘れて
エリザベートの存在を無視して舞台は進んでいく。

凪七のエリザベートは、言わば、初めての演技をして芝居をする舞台と
言っても過言ではない未経験者だ。

歌わなくてはいけない、演技しなくてはいけない、
個人的には気も使わなくてはいけない、いけないだらけの中での舞台だ。

それだけに、エリザベートの魅力をかもし出すまで到達してない。
それは演出の責任でもある。
それが判って他の組から持ってきたのだから、そのあたりは細かい気配りが必要だ。

過去に宝塚歌劇の演出家、植田紳爾がこんなことを言っていた。
いい生徒が居て自分の公演のとき抜擢するが、次の公演では
その抜擢した生徒が使われなくて、抜擢した意味がなくなると。

タイトルロールを背負った凪七エリザベートは、演技の表現の方法を
知らないだけに、舞台は苦戦している。
大切なのは、いかに表現するか?と余韻を残しながら芝居をする事、
更には芝居をしながら、溜め込むところは溜め込んでいくという
技術をこの際習得したらいいと思う。

瀬奈トートはせめてもエリザベートに魅せられたという感じを表現して欲しい。
そして常にエリザベートがトートの魅力に
目がちらつくぐらいの魅力を舞台で表現して欲しい。
そうでないと、最後トートに魅せられ天空にいくエリザベートが哀れになる。

もう一ついえることは、やっぱり専科の人を配役に入れるべきだろう。
重石がない舞台は締まりがないのだ。
皇太后ゾフィーとか、一寸した役に専科の出演が欲しかった。

更に狂言回しのルキーニを演じた龍は、自分を出しすぎて、
狂言回しとは何か?これが芝居の流れにいかなるアクセントになるかを
理解しないで演じているので、芝居の流れを分断してしまう。

改めて大切な事は、平均的に芝居が出来る生徒を育成すること、
安易に他の組から人材派遣しないこと、
配役を大切にしないと重石のない舞台になること、
そしてトップスターは、組の軸として観客にも納得させる力量を持つことだ。

今回エリザベート役の凪七は、上手いとか?下手とか?未熟?とか
賛否の否の山盛りだろうが、一つ言えることは、エリザベートが
演じられたということで、これは凪七の大きな財産に、
そして公演はこれからまだまだ続くわけだから、日に日に進歩できる
事を自身が見にしみて思うことだろう。

さらに大切なことは男役の凪七は女役の男役に対しての心構えが
習得できることだ。

それがやがては実を結ぶことにつながる。苦は楽、楽は苦の種という言葉がある。
日進月歩という言葉もある。
エリザベートは毎日の舞台が稽古場と思う気分で務めるぐらいの開き直りがいるだろう。

かつて振付の喜多が初舞台生に笑い顔が大切と教えた。
その笑い顔をどうして作るかというと、お母さんと言えと。そうすると笑い顔になると。
凪七も目で笑う芝居を忘れてはいけない。
口で笑っても目が引きっていたらお終いだから。

  観劇 2009年5月30日(土)宝塚大劇場11時公演 5列23番 ちゅー太


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